最終更新日 令和3年1月4日
関西森田の会 報告書
Vol.11 2015.3.31
【関西森田の会概要】
目的
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関西圏での森田療法家の育成と親睦
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関西圏での森田療法に関する勉強会、セミナー、イベント等の開催及び紹介
(森田療法の研究と実践ノウハウの共有、高度化)
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関西圏での森田療法のコア施設づくり
対象者
森田療法に興味がある全ての方
運営
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年会費:なし
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活動費:実費
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代表:仲野 實(ナカノ*花クリニック)
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事務局:ナカノ*花クリニック(TEL:072-234-0879)矢野
【第11回 関西森田の会・講習会の報告】
■ まだ正月気分の残る1月31日土曜の16:00から、「ホリスティック(全体的)教育と森田」という演題で、神戸市立本山南小学校教諭の桑田省吾さんに話をして頂きました。
■ まず、ご自身の体験から「どもるとはどういうことか」が話されました。一般的な定義としては、「音を繰り返したりつまらせたりするなどの言語症状があって、脳や発語器官等に器質的な異常がなく、本人が流暢に話せないことを予期し、不安を持ち、悩み、避けようとする状況」とされていて、決してことばの症状だけでもないし心の病でもない。そういう状況なのだと、桑田さんは言い切ります。
例えば桑田さんの場合は、それは“ことばかまわず”構音不能となり、1音1音がはっきりせず、一塊になり、語尾に向かってザーッと早口になり、ゆっくり喋ることができなくなり、適切な間が取れなくなり。体がこわばり、内臓の動きまでぎこちなくなり、周りも自分も明らかでない重層した複雑な問題状況なのだと言います。
ここで、桑田さんが「病」ではなく「状況」だと言い切るというのは、とても重要なことだと思います。例えば、赤面恐怖症を“心の病”としてみるのではなく、“赤面する状況”としてみれば、今までとは違う別の視野が開かれるのではないかと私は思います。パニックもそうですし、強迫もそうです。そういう視野を持つことによって、「薬」とか「心理」とか「脳」とかだけではないさまざまな状況的な要素が視野に入ってくるのではないかと思います。
そして桑田さんは、次のこともはっきりしていると言います。「どもるという状況」がどうして起こるのかは明確にはわかっていないし、「どもるという状況」の治し方もコントロールの仕方も明確にはわかっていない。しかし、「どもるという状況」があるからといって、皆が皆、悩まされ、自分らしい生き方ができていない、というわけでもない、と。
だとするならば、「どもるという状況」のいちばん大きな問題は「どもるという状況」のむしろ2次的な問題ではないのか、と。例えば「どもる自分はダメな人間だ。このままだと就職も結婚もできない。どもる限り自分らしい人生は送れない。」と考え、あるいは絶えずいらいらし、オロオロし、情緒不安定で、体を固め、無表情で、黙り込み、意欲低下で、抑うつ的となり、引き籠り・・・、そうした2次的な問題がむしろより大きい問題なのではないか、と言います。
また、こんな2次的な問題もあります。「あなたとしゃべっても、しゃべっている気がしない」と言われ落ち込んでいるAさん。人とは肝心なことを話さずにずっと来たBさん。突然「どもれなくなった」自分に当惑しているCさん。これらは静かな2次的な問題ですが、これもまた大事な問題です。
■ このどもるという状況の2次的な問題をどうすればいいのかと、と桑田さんは模索します。
そして、「吃音は、世界中のどんな方法を使っても治すことはできない」、「私たち吃音者は事実を認める必要があります。ぜんそくや心臓病を患っている人と同様に、私たちもその事実を受け入れようではありませんか」と言う、チャールズ・バンライパーに出合います。「一種の諦観ですね。ジタバタするな、腹をくくれと言われた感じですね。」と、桑田さんは言います。
そして、ウェンデル・ジョンソンの「言語関係図」(3個の軸、①吃音症状の重い・軽いという第1軸、②相手の反応すなわち吃音に批判的か・理解があるかという第2軸、そして、③吃音者本人の受け止め方すなわち、ひどく気にしているか・余り気にしていないか の第3軸 の相互関係によって、どもるという状況が変化するという)に出合い、桑田さんは、自分の受け止め方を変えるという第3軸を変えるだけでも、どもるという状況の2次的な問題は小さくなるのではないかと考えます。
《私(仲野)はもう1軸、すなわち話すことばの難しさやリズム感という第4軸を入れてもいいのではないかと思う。私は今、「吃音に悩まされて、教室で教師に音読を当てられるのが恐怖だったS氏が、教科書の「走れ メロス」を読んだ時、いつの間にか『ああ、その男、その男のために私は、いまこんなに走っているのだ。その男を死なせてはならない。急げ。メロス』と声に出して読むリズム感に酔って、すっかり「どもるという状況」を忘れていたという話(佐伯一麦『麦主義者の小説論』68頁)を思い出している。また、会に参加していた僧侶の四井さんも吃音者ですが、「歌やお経は全くどもらない。リズムがありますから」と言います。》
さらには、桑田さんはジョセフ・シーアンの「氷山説」に出合います。シーアンによると「話し言葉の問題、すなわち吃音の言語症状は水面上に現れた氷山の一角に過ぎない。そこだけにとらわれていてはいけない、氷山の水面下にこそ目をむけなければならない。」と言います。水面下には氷山の隠れた部分、すなわち「感情」や「考え方」や「行動」といった「からだ」の部分があり、さらには氷山を浮かべている海水といった「取り囲む環境の問題」があります。自分(桑田さん)自身で言えば、水面上に現れた吃音の言語症状においては失敗することがいつも頭にあって、水面下の「感情」はいつも不安で、「考え」はこんな自分はダメだと思い、「行動」は隠す、隠れる、避ける、そして「海水」(周囲の環境)にはうまく説明できずにいる、という状況にありました、と言います。どもるということを状況として捉えると、とてもよく分かる話です。
そして、どもりながらでも歩める道はあるのか・・・と迷い、どこに相談に行っていいのかもわからず、言語病理学や医療の動向も気になり、吃音者の「幸・不幸」は、吃音症状の「治る・治らない」に関わっているのかとも思い、「氷山」まるごとへのアプローチ・ホリスティックなアプローチはないのかとか「ことば」「感情」「考え方」といった「からだ」のそれぞれ個々にアプローチしないといけないのかとか・・・と悪戦苦闘する毎日だったと言います。
■ そうした中で、桑田さんは森田正馬(1874~1938)に出会ったのです。
バンライパーの言葉により事実を受け入れる姿勢をもったこと。ジョンソンの「言語関係図」で、吃音者本人の受け止め方(第3軸)を変えるだけでも、どもるという状況は多少楽になるのではないかと気付いていたこと。シーアンの「氷山説」の水面下の「からだ」の部分の「感情」を操作することも「考え方」を変えるのも難しいが、人とコミュ二ケーションをとっていくという「行動」はできそうだ、という気付きがあった。つまり、森田正馬・森田療法に出会う準備段階だったのではないでしょうか。
出会った時、森田正馬は言いました。「症状へのとらわれに向けられていたエネルギーを、本来の生の実現に方向転換しようではないか」、「症状を無くすることを目標にするというとらわれから自由になろう」、「できないなら、できないなりに行動してはどうでしょう」、「感情そのものをコントロールしょうと思わないで、いかにそれとともに生きることを考えてはどうでしょうか」、「あるがままに目的本位に行動をしてはどうでしょうか」・・・と。森田正馬のことばは、桑田さんのこころにスーッと入ってきました。それまでの悪戦苦闘がうそのようでした。話し言葉の問題、吃音の症状、それをなんとかしようは、“とらわれ”、“はからい”だからやめる。まずは行動、生活の中での目的本位の行動、すべきことはそれだけ。これで問題はスッキリした。これなら明日からでもやれると、思ったそうです。
桑田さんは早速、朝校門まで行って、子供たちの顔を見て「おはよう」と言う。休み時間はできるだけ校庭にでて子供たちと遊ぶ。子どもたちと散歩する。子供たちの話を聞いてみる。教室では子供たちに伝えるべきことはちゃんと伝える。
こうして桑田先生は子供たちと一緒に、「行動」、「行動」、また「行動」。そうすると不思議なことに、症状への“とらわれ”が“受け入れ”に変り、それとともに、それまで意図して無視していた感情や考え方が自然なかたちで動き出した。「気」が動きだした。素直に「気」が動き出してびっくりする。「気」を持てるようになるってとても嬉しい!目的本位の行動で自分が見えてくる。自分の本当にしたいことは・・・と考えるようになる。気持ちはどうであれ、すべきことに自分を投げ出してみる。逃げるのではなく、生活の中に留まることの大切さを知る。
■ 桑田さんは、ここで再び“ことば”にぶち当たります。行動を阻むものとしての“ことば”です。学校という“ことば”中心の職場では自分を生かす場はないのではないかと思い、“ことば”を使わない職業;職人をめざそうか、とも考えたと言います。
しかし、「不安な状況に少しでも留まれる姿勢を・・・」と語る森田正馬と、「自分なりの“ことば”を持っていく営みを・・・」と語る竹内敏晴との間に、共通するものを見た桑田さんは、竹内敏晴(1925~2009)の『からだとことばのレッスン』に入って行きました。
私(仲野)は、竹内敏晴についは有名な『ことばが劈(ひら)かれるとき』他数冊の本でしか知りませんが、桑田さんによると、竹内敏晴の“からだ”とはまずは“わたし”のことであり、“わたし”は“からだ”として他者に向かい合って立つ。そして、“からだ(私)”が相手に働きかける。“ことば”は口先や頭の解釈ではなく、本当に相手に語りかけようとするアクションである。主体は“意識”ではなく“からだ”であり、自分の全存在をかけて相手に働きかける“からだ”なのだ、と。
そして私はカラッポの“からだ”になってはじめて他者へと劈かれる。他者へと劈かれる私は“からだ”であり、その“からだ”は空っぽである。“からだは空だ”ということでした。
桑田さんは、情報伝達や社交辞令のことばはできるだけ使わず「今、生まれることば」だけを大事にし、マイクや電話もできるだけ使わずじかに相手とはなしをし、前もってことばを考えないで丸腰ではなしをし、それを重ねているうちに行動を阻むことばはなくなり、束縛することばもなくなり、“空だ”の“からだ”でのことばだけでコミュニケーションできることを知ったと言います。
■ そしてさらに、桑田さんは、仏道としての「がんばらない!」 へと進んで行きます。桑田さんによると仏の教えとは、自分の持って生まれた宝・徳に気付くこと。つまり凡夫のままでいい、そんなに頑張らなくていいということ。山川草木・自然に畏敬の念を持つことで、その中の小宇宙としての私(からだ)に気付き、“つながり”という安心を得ること。そして、あさはかな人間の考えではどうしょうもない事実が厳然としてあることに気付き・・・、現象そのままの形で真実として受け入れる(事実唯真)。あきらめと言っても良いし、諦観と言っても良いし、森田のいう“あるがまま”と言っても良いし、いずれにしてもそれはそれ。
「自立できないのは、本人の努力のせい」と言われる。繰り返し聞こえる「がんばらないと!」の声。「How many roads must a man walk down Before you call him a man :どれだけの道を歩けば、人は人になれるのか」(Bob Dylan 『Blow in the wind』)。なぜ、“あるがまま”になれないのか。なぜ、相手と丸腰で「ジカ」に触れ合えないのか。桑田さんはこの人為的な“がんばりの罠”と闘いながら、一途に仏道に励んだと言います。人は本当に自立せんといかんのか、とも思いながら。
桑田さんが「障害のある、なしに関わらず」と言うとき、それまで「障害者論」ないしは「精神医学」の視点からからしか見て来なかった私(仲野)は、とても安心した気分になりました。この安心は、山川草木・自然・宇宙と“つながった”小宇宙としての人間という、仏道の視点の広さに拠るものかとも考えました。
仏道とは、「行動」を通じて生まれ持った宝・徳に気付き、その力を生かすこと。自利利他、相手が幸せになることによって自分も幸せになる。三密;身(からだ)と口(ことば)と意(ねがい、目的)が一つになる。すべてのいのちのつながりの中で生かされている自分に気付く。ただただ生まれ持った心のままで「行動」すれば良い。
森田正馬の『森田療法』と竹内敏晴の『からだとことばのレッスン』で、桑田さんは「受動的な注意深さ」を身につけたといいます。すなわち、自分の基準ではものごとは見えてこない、ある部分だけを分析的に見てもものごとは見えてこない、積極的に見ようとしてもものごとは見えてこない。何らかのサインなり波動が自分に同調して、何かを知らせてくれるのを何もしないで待つ。「ことばにする」のではなく、「ことばになる」のを「待つ」。これを桑田さんは「受動的な注意深さ」と表現しています。
これをもって桑田さんの仏道修行がなされます。すなわち①意をぬく、②からだに任せる、③受動的な注意深さ。
森羅万象すべてが真理をかたっている。
そこで司会者の私(仲野)は考える。これは「自己をはこびて万証するをまよいとす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり」(道元『正法眼蔵』)のことかと。そして時計を見るとすでに time over! 今日の演題である「ホリスティック教育と森田」の話には入っていない。そのことを言うと「森田はホリスティック教育そのものである」と記載された資料だけが配布されて(これがまたまた難解ですが)、とりあえず話が森羅万象・宇宙大に広がったところで講演会は終了として、そのまま関西森田の会例会(親睦会)に移行しました。
【第11回関西森田の会例会の報告】
■ 桑田さんの「どもるということの“状況”」から始まった話が、森羅万象・宇宙大に広がったまま切れ目なしに例会に入ったものですから、15人余りの会場のあちこちで議論が始まり、とても司会者が司会をしてまとめる状況ではありませんでした。というより、今日の話のように何もしないでボーッと聴いて“待つ“ことにしました。
すると、僧侶であられる四井さんの声で「心って犬みたいなものですよ」ということばが耳に入ってきました。そういえば今日は、“からだ”の話ばかりで“こころ”ということばは全く出てこなかったなーと思いながら耳を傾けていると、「こころって追いかけると逃げ、逃げると追いかけて来るやっかいな奴ですよ」いう話でした。なるほどと納得しながら、こころは人間の”影“みたいなものかなーとも思いました。いずれにしても、こころは「心と体」と二項対立するほど実体のあるものではなく、桑田さんの(竹内敏晴さんの)話にあったように、こころやことばはからだの一部なのだと認識を新たにしました。
■ この間、関西森田の会は全国のどこでもやっていないことをやってきました。森田における「身体論」です。中野先生の積極的筋弛緩法の体そのものから始まり、今日は桑田さんの話で森羅万象・宇宙大に“からだ”が広がりました。驚きです。“からだ”は日常生活の中でからだ化した“ことば”でもあり、からだ化した“行動”でもあり、からだ化した“日常生活”そのものです。“からだ”は森羅万象・宇宙大にまで広がり、繋がっているのです。その繋がりの中の小宇宙としてのわたし。Let it be. そのままでいいのです。
■ ただ私(仲野)は、上に書いた道元の言葉に引っかかっています。私たち関西森田の会は、何年も掛けてやっとこの広大な地点に到着しました。これは素晴らしいことだと思いますし、全国に自慢していいことだと思います。しかし道元はそうは書いていません。もう一度読み返します。『自己をはこびて万証するをまよいとす、(万法すすみて自己を修証するはさとりなり)』私たちは、“自己(からだ)”はこび森羅万象にいたったのです。道元はそれを「まよいとす」といいます。
■ 話はそれますが、私(仲野)は神戸ユダヤ文化研究会に関わっています。西欧思考の根底にはギリシャ哲学の「イデア(概念)」とユダヤの「言葉」があります。東洋・仏教とは、基本的に違いがあります。「言葉」と「からだ」と言ってもいいかと思います。今、西洋はとても大きい困難に陥っています。道元の「まよいとす」の中にいます。
■ 私たちも「まよいとす」の中にいます。そこまで分かっていながらなぜ関西森田の会の報告書がこんなに長くなるのか。ただただ、良寛さんのように、子供らと手毬つきをしておればいいのではないのか。長谷川東伯の最晩年の「松林図」のように、最小の線で絵をかけばいいのではないのか。説明はいらない。何もしないで「生れでてくることば」を、ただ待つだけでいいのではないのか。
■ 今日のこの場に森田正馬がいたら、彼は何を言っただろう、何をしただろう。森田正馬はとても面白い人で、60人の新年会参加者の前で、チョン髷のカツラをかぶり、黒紋付きに赤だすき、尻はしょおりで、日傘を差したいでたちで、綱渡りを披露し、一同どっと喝采したという(これも森田療法!)。
そこで次回は「森田正馬と一緒に風呂に入った。森田先生の背中を流した」と豪語する森泉智男(1966~)さんに、この身体シリーズの収めをしていただく予定です。
(文責・仲野)
☆第12回 関西森田の会講習会
テーマ:「森田正馬における“生きる身心”」
担当: 森泉 智男(浅香山病院臨床心理士)
日時:平成27年5月23日(土)16:00~18:00
場所:岡本記念財団事務局会議室
第12回 関西森田の会例会(親睦会)
日時:講習会終了後
場所:岡本記念財団事務局会議室
会費:1000円程