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関西森田の会 報告書

Vol.14  2016.4.22

【関西森田の会概要】

 

目的

  1. (1)    関西圏での森田療法家の育成と親睦

  2. (2)    関西圏での森田療法に関する勉強会、セミナー、イベント等の開催及び紹介

  (森田療法の研究と実践ノウハウの共有、高度化)

  1. (3)    関西圏での森田療法のコア施設づくり

対象者

 森田療法に興味がある全ての方

運営

  1. (1)    年会費:なし

  2. (2)    活動費:実費

  3. (3)    代表:仲野 實(ナカノ*花クリニック)

  4. (4)    事務局:ナカノ*花クリニック(TEL:072-234-0879)矢野

 

【報告をする前に】

 

■ 第13回講習会の報告書において

森田療法の不易その③ 感じを高め、物の性を尽くす。

そのためには牧さんが言ったように、情報や映像あるいは理論や常識、そうしたものの一切を排除して(または“それはそれとして”)ものそのものに触れることかもしれません。私たち(仲野及び矢野)は、『レヴィナスの他者論』(鶴真一)を読んでいます。アプリオリに意味作用を持つ他者(私たちはレヴィナスの言う他者を人間だけに限定せず森羅万象に拡張して考えています。森羅万象に拡張することの功罪も踏まえてのことですが)は、“顔”を通じて私に問いかけます。私たちの行動のすべては他者を前提としたものでありますから、他者の顔を感じることのできる感じを高め、他者への応答としての“私固有の表現”を明確にし、もって物の性を尽くしていきたいと考えています。他者は視覚や触覚を通じて認識されるものではありません。私たちは、他者を知的に認識し理解しようとする西洋的な姿勢の内に認識主体の傲慢と暴力性を見ています。私は他者の顔を感じ、“私固有の表現”でもってこれに答え、これを繰り返しながら“他者の他者性:わからないということ”を知ってゆくのだと考えています。私仲野が他の論文で言った“他者の回復”とは実はこういうことであり、こうして私は他者に対して謙虚になってゆくのです。これは道元が『正法眼蔵』でいった「自己を運びて万法を修証するを迷いとす。万法すすみて自己を修証するはさとりなり」であり、これが他者との東洋的な関係のあり方ではないかと考えています。

と書きましたが、それに対して、牧隆平さんより、次のようなメールをいただいております。

 

■ 「・・・他者論で言えば、そうしたが他者の他者性を尽くすということであり、“一期一会”の深い意味だと感じます。つまり、何度もあったことのある人か、一生に一度会うかどうかという人であるかといった差異もなく、現前する“他者”にその場、その時に“劈かれる”というところでしょうか。・・・レヴィナスの他者論の“主題化、概念化”できないものとしての他者という表現で思い出すのは、(禅的)森田療法における、“こころは主題化、概念化できない”というものです。

 そうなると、神経質者の“自分”というもの、“症状”というものを“知的に理解することへの暴力性”を、森田療法は扱っていたことになります。“倫理”は、他者だけでなく、自分や恐怖・不安といった感情の取り扱いの問題でもあったのでしょう。わからない“他なるもの”に、そのわからないまま出会い続ける認識主体のことを、“純な心”といったとも言えるのではないでしょうか。純な心において、“自他不二”の東洋的叡智との邂逅が起こるとも言えますし、西洋ではそれを“神”と呼んだのかもしれません。

 

■ レヴィナスの他者論はPCに「鶴真一 レヴィナス 他者論」と入力して検索していただくと7枚の論文としてプリントアウトされます。私・仲野は、牧さんのこのコメントによって、森田療法、特に純な心の理解が大きく深まったと考えます。森田療法を考えていく上で、レヴィナスの他者論は避けて通れないものと思います。ある時期を見て俎上に乗せたいと思っています。

 

【第14回 関西森田の会・講習会の報告】

 

■ 平成28年3月26日に『森田療法における不易;変わらないこととは何か』というテーマで話し合いが持たれました。“不易流行”とは松尾芭蕉の言葉で「不易を知らざれば基立がたく、流行を弁えざれば風あらたならず、・・・その基は一つなり」、すなわち永遠不変のことを知らなければ基礎がつくれないし、流行をわきまえないと新鮮さを持ちえない、・・・両者の根本は一つである。草は草であり、木は木であるが、風が吹けばそよぎ、夏の暑さにはしおれ、雨が降れば生き生きとし・・・そこに俳諧がある、ということなのでしょうか。“その基”というのを松尾芭蕉は“風雅の誠”と呼び、私心を捨て大自然と一体となった永遠不変の境地としています。森田療法にも同じくその両方、不易と流行があり、その基があるのだ、ということでそれを探っていく試みです。

 今回、その不易流行に3つの相があるという話になりました。すなわち守破離の3つの相。

まず1の相;森田療法のエッセンスや適応の厳格さを堅持し、妥協なき狭き門を守る

次に2の相;そこに個々の治療者の個性や特性が織り交ざり、森田療法の狭き門が破られる。そこでは治療者の悩みや、治療者の分をわきまえることが肝要となってくる。

そして3の相;ついには森田療法という形も溶けてしまい、森田療法はそこでの関係性だとか生き方だとかの本質に還元され、自由でオープンで臨機応変な療法になる。こうして森田療法が森田療法を離れる。

 2の相、3の相については無数にあり、100人おれば100通りある。厳密には1の相に基づいてやるにしても、2の相が否応なく現れるため、1の相にしても現れ方は100通りある。不易は一つでありながら、実際には100通りである。このことを踏まえれば、教条主義も原理主義も生まれない。

 

■ 三聖病院の宇佐玄雄は、「神経質の治療は、元是れ法にあらず、術にあらず。その治癒は畢竟、体得、諦悟にありて、説くべきの文字なく、諭すべき言句なし。強いて言はんか、不問、不説の法あるのみ。蓋し神経質の症状は、所詮心の執着の所産なるが故に、一語過ちて之を説かば、直ちに言句に執し、文字に着して、益々苦悩を重ねるに過ぎざればなり。若し夫れ名に執し、字に着して解を追はば、所謂驢年に至るも猶ほ會せじ。切に望む、読者諸君、高く眼を著けて、直ちに天邊の月を把握し、徒に著者の閑手指に瞞ぜらるること莫らんことを。」と言う。言葉や文字は所詮、月を指す指でしかない。諸君、直ちに月そのものを入念に見て、月そのものを体得してほしい、と言う。

 そこに、診療が終わって駆け付けた黒川内科の黒川さんが来て、「森田療法は体得そのものであり、理屈などで全くない」と断言する。この間一貫して森田の身体論を展開してきた桑田さんも、「からだに訊く」「からだを劈く」「空だ!になった、からだで他者と繋がる」と言う。牧さんも「体得あるのみ」と言う。

 

■ 桑田さんによると、夏目漱石(1867~1916)は「近代化は日本人にひどい神経衰弱をもたらす」と書いている。当時は上からの急速な近代化の押し付けによって日本人の中にあった東洋的なトータリティー・コスモロジーが切り捨てられ、生活の場全体を覆う不安が、『こころ』に書かれたような不安が、大衆に拡大した時代であった。止観(自我を放棄して、ただ見る)や瑜伽(自他が一つになる修行。ヨガの語源)を大切にする東洋的合理性はもともと人類共通のものであったのではないか。

 日本の話をすれば、稲作を知っていたが自然とのつながりを大事にして、あえて稲作をしなかった縄文人(初耳)。空海はもともと修験道をしていて、遣唐使で中国に渡った後、仏教を日本の風土の中に根付かせた人ですが、彼の父はであった(これも初耳)。このように、縄文の昔から自然の中で現象を受容し、現実を肯定し、あるがままに暮らしてきた日本人に明治、特に日露戦争(1904~1905)前後に突然やってきた西洋的合理性(自と他を切り離して、他を対象として捉える見方。そして、自我が邪魔して物事があるがままに見れない見方)によって、日本人はひどい神経衰弱になる。その時代に森田正馬(1874~1938)のしたことは何だったのか。

 Body・身体でないからだ、すなわち他と、あるいは自然と一体となった“からだ”の回復であった。

 

 したがって、森田療法の不易その一は“からだ”と言っていいのではないか。それはメルロ・ポンティの言う身体ではない。関西森田の会でこの間やってきた“森田のからだ”である。

 この森田のからだとした森田療法の不易その一を、それぞれがどう体現するのかは、それぞれに課された課題である。先に挙げた3つの相を踏まえて、それぞれで体現してほしい。

 森泉さんは、森田療法の不易は“休息と作業”と言った。彼が言うに、西洋特にドイツ医学が入ってきて、日本古来のタオ(道)と言う考えがそぎ落とされた。その時人間が生きてゆく上で何が基本的なことかと森田正馬は考えたのではないか。そして頭に浮かんだのが休息と作業であったのではないか。だから森田療法の基本に休息と作業がある。

 しかし(私・仲野が考えるに)休息と作業はからだの動作であり、活動であり、したがってこれもからだに含めていいのではないか。含めたうえで休息と作業を強調してもいいのではないか。森泉さんには、休息と作業を強調した森田のからだを体現していってくれることを期待する。

 今西洋は、あるいは西洋的なものは、政治も経済も安全保障も環境も大きい行き詰まりに直面している。アメリカでもヨーロッパでも中国でも、そして日本でも。近現代社会の病根に作用し得る良薬があるとすればそれは、森田が明らかにした不易流行の中にあるのではないか。今時代は急速な近代化によって日本人がひどい神経衰弱になった1910年代と同じ状況にあると考えていいし、私たちは真剣にそれに対する対応を考える時に来ているのではないだろうか。私たちはそれぞれに森田の明らかにした不易流行を考え体現する任にある。桑田さんは大乗という。自分だけじゃなく皆一緒にと言う。皆一緒にそれぞれに体現していきましょう。ここは、歯科医の中野さんが盛んに強調するところでもあります。

 

■ 牧さんが持参してくれた森田正馬が90年前に書いたと言われている絶対臥褥『第一期療法中の注意』というのが三聖病院に残っている。

 ・食欲に応じて食べ、眠れなければ眠らないこと。

 ・雑念がわけば、これを無理に払い除こうとせず、そのまま雑念していくこと。

 ・聞こえる音はそのまま聞き、見えるものはそのまま見ておくこと。

 ・不快な症状が起こったときは、そのままにしておくこと。

だいたいこのあたりが森田療法のからだにおける不易の1の相になるのかと思う。森田療法を現代風に考えようとする立場からすると、少し強力な行動上の制限があるのではないか、妥協なき狭き門を守りながら現代風な言い方があるのではないか、あるいは不易の2の相が出てもいいのではないか。森田の言葉を金科玉条のように繰り返しては治療者が柔軟性を失って、患者に良い結果を与えられないようでは本末転倒である。狭き門を守りながらも工夫は必要であろう。

 牧さんは、森田療法の実質は心身の自然療法であり、体験療法であり、自覚療法であるという。だからこれも森田療法の不易その一;からだに含めていいと私は思う。

 

■ 牧さんは『森田療法の精髄』と題して、次のような文章を用意してくれた。

 ・暗示、論理的説得、心の中の原因追及などではなく、「生活、行動、精神的態度などを指導し、これによって患者の体験に対して、これを批評、断定と応用を教えるのみ」

  (実行 → 体験 → フィードバック)

 ・その人その人の、「あるがまま」が回復に導くということへの信頼

 ・こころのあり方に「こうでなくてはならない」という考えは微塵も持ち込まない

 ・「なりきる」といった「心的態度」のあり方の転換を促し、その境遇を準備することへの工夫をする

さらに、森田の「精神的態度」に関する指導 と題して次の文章が続く。

 1.1 自分の心をやりくりするのではなく、周囲の境遇を選ぶ工夫をする

 1.2 「病気の治療」あるいは「苦痛の回避」手段を奪ってしまう

 2.1 純一に恐怖そのものになってしまう

 2.2 現在になりきる

 3.1 物事に当たって、それを見つめよ――「感じ」から出発する

 3.2 あるがままの姿を観察する――破邪顕正、事実唯真

 4  実際生活による収容を通して、苦悩を自己反省し、「欲望はこれを諦めることはできない」といった自覚を深く正しくする

 

■ いろいろと議論が続いたが、森田療法の不易その二はどうもこのあたりだろうということになった。聞き慣れた言葉ではあるが、“あるがまま”と言うことになろうか。

 その人その人のあるがままが回復に導く。恐怖そのものになってしまう。現在になりきる。事実唯真、あるがままの姿を観察する。なりきるといった心的態度、欲望はこれを諦めることはできない。こうした文章をつなげると、やはりあるがままになろうか。

 牧さんは、そのためには暗示、説得、原因追及、こうでなくてはならないという考え、心のやりくり、病気の治療あるいは苦悩の回避を微塵も持ち込まない。そして、生活、行動、精神的態度を指導し、まずは実行、体験、そこで生まれる感じ、それをフィードバックする。それができる周囲の境遇を準備ないしは選ぶ工夫をする、と言う。これも納得。

 すなわちあるがままと言い放っておくのではなく、周囲の境遇を工夫して準備し、生活、行動、精神的態度の指導を行う。これが森田療法である。

 したがって森田療法の不易その二は「あるがままへの境遇を工夫し、指導する」と、とりあえずしておく。次回の関西森田の会での検討をお願いしたい。ここでも念を押すが、森田療法は理屈ではない。それぞれがどう工夫するのか、生活、行動とその体験をどうフィードバックするのかは、それぞれの課題であり、どう体現するのか、体現したのかを一緒に検証しよう。

 

■ 森田療法の不易その三に純な心も加えるべきだという話も出た。話のいきさつは忘れたが、現代はダイレクト感がなくなってきている。体の感覚が薄れている。純な心に向けて、どういう行動をとっていくのか。純な心をもう少し厳密な言葉にする必要があるのではないか、と言う話であった。

 この報告書の最初に『感じを高め、物の性を尽くす』話の中で、レヴィナスの他者論を出し、それに対する牧さんのメールを紹介した。その中で「わからない他なるものに、そのわからないまま出会い続ける認識主体のことを純な心と言ったともいえるのではないでしょうか」とありました。私は他者を知的に認識し理解しようとする認識主体の傲慢と暴力性を排除し(牧さんは、レヴィナスの十分な理解に基づいて、それを倫理とまで言った)、わからないまま出会い続ける認識主体。これは純な心の厳密な表現に値する言葉だと私は思う。しかしレヴィナスは哲学者であり、いくら哲学は厳密であるとしても、森田の中でそれぞれが体得した言葉でもって、それぞれに純な心を表現してほしい。100人おれば当然100通り。これは次回への課題である。

 

■ 最後に、事務局担当の矢野さんが、70年代に活躍したオランダの偉大なサッカー選手、ヨハン・クライフが、先日68歳で亡くなったという話をした。彼が言うに、ヨハン・クライフのプレイには「生活」がある、と。子どものころからストリートサッカーをし、彼の生活そのものがサッカーであった。もちろん、トレーニングはあったが、それはその上に積み重ねたものだ。「生活」が基本にあって、その上に「トレーニング」がある。今日の話を聞いていると、森田療法はどうも、諸々の治療の基本=生活で、その他の療法はそれに重ねられるトレーニングのように思えてくる。今日の話は精神科治療の基本の話であったように思う、と。

 それを聞いて私は、諸々の精神科治療、あるいはもっと広げて、教育や福祉や・・・人間に係る諸々の活動を並列的に見るのではなく、重層的に見る見方があるのだ、と思うとともに、森田療法の重要性を身の引き締まる思いで感じた。帰ってヨハン・クライフのプレーを見たが、後にも先にもあの“動きの中での柔軟な身のこなし”は彼しかできないと思った。それが彼の不易であり、その後彼のプレーは参考にされることはあっただろうが、それは彼の不易ではない。その不易はヨハン・クライフだけのものである。不易を事象に、例えば森田療法に所属させようとする西洋的な考えと、その個人なり状況なりに所属させる東洋的な考えの違いにも、いま、関心があるところである。

 (文責・仲野)

【追記】

 仲野先生が私の話(ヨハン・クライフについて)を扱ったので、いろいろ話したくなり、ここで少々話をさせていただきます。

 

■ サッカーとはいったいどういう競技でしょうか。現在に至るまで解釈はさまざまですが、ヨハン・クライフは当時のサッカー観をひっくり返して現在に多大な影響を与えた選手・監督です。当時のサッカーはフォワードは攻めるだけ、ディフェンダーは守るだけの役割であった。そこに流動性の概念を取り入れた「トータル・フットボール」で一世を風靡したのがクライフであり当時のオランダ代表でした。最終ラインでボールを持ったかと思えば瞬く間に最前線まで飛び出していくクライフの姿は、サッカーという競技に革命をもたらしました。

 スポーツは見るものに感動を与えるものであるべきだ、というのがクライフの哲学で、「1-0の勝利より4-5の敗北」という言葉も残しているほどです。現在世界でトップクラスのチームであるバルセロナは彼の哲学をもとに作り上げられたチームであり、世界中に感動を与え続けています。

 

■ サッカーの“正しい”姿とはどのようなものでしょうか。クライフはサッカーを美しさや感動の追求と考えましたが、現代のサッカーにおいても絶対的な位置を占めてはいません。色々な考えがあります。

 興味深い事実があります。ブラジルでは経済の発展によりストリートサッカーをやるものが少なくなり、テクニックのある選手が減ってきていることです。また、ヨーロッパに選手を売る(移籍させる)にあたり、身体が強い選手が手早く育てられるということから、テクニックよりフィジカル(身体)能力を鍛えるブラジルのクラブチームがほとんどのようです。2014年自国開催のワールドカップでブラジルは歴史的大敗を喫しましたが、対戦相手で優勝国のドイツはその10~15年ほど前からテクニックを育てる全国的な育成システムをじっくりと作り上げ、その成果として世界一の栄冠を勝ち取りました。以前のドイツは屈強な身体と鋼鉄の意志によるサッカーでしたが、目指したものはクライフの哲学(あるいはそれに限りなく近いもの)でした。

 

■ “正しい”ということはあらゆる物事において絶対的ではないのかもしれません。例えば経営において人文科学の考え方を取り入れる動きがあります(『なぜデータ主義は失敗するのか?』という本で人文科学的経営手法を扱っています)。

 人文科学とは「人間が世界をどのように“体験”するかの理解に重点を置く学問分野群」です。社会学、心理学、哲学、文学などが含まれます。これに対するのが”属性”に注目する自然科学ですが、現代の経営学は自然科学的な発想に寄って発展してきたように思います。その理由はデータという視覚化できるものは分かりやすく比べやすいという特色があるからです。

しかし人間はそう簡単に属性化できるものでしょうか。試しに自分を属性化してみてください。それがまさに自分を表していると思える人もいれば、そうでない人もいるでしょう。また、少し見栄えのするように見栄を張った評価をすることもあると思います。これはつまり、正確に属性化することはきわめて難しいということです。人間を正確に理解するにあたり属性化という手法は適当ではないということです。

このような事情から、人文科学による“体験”への注目が企業経営でも導入され始めています。具体的にはテレビが電化製品から家具へ、スポーツが競技からトレーニングへ、といった具合に体験に基づく新たな側面に注目し、製品やビジネスが設計されるようになりました(元々の視点を捨てるというわけではない。電化製品の側面も競技の側面も確かに存在している)。しかしこれも新しい試みであり、これが“正しい”手法であるとされるかどうかはいまのところはっきりしていません。

 

■ “正しい”精神科治療はどのようなものでしょうか。これもやはり様々な考えがあると思います。歴史的に見ても治療の形は変化しています。特に薬学の進歩により薬物治療は昔に比べて充実しています。医学そのものは自然科学的な領域なので、精神科領域もそのように扱われてしまうのですが、精神科治療の未来像は純自然科学的になるのでしょうか。少なくとも私はそう考えたくありません。

科学技術や社会が変化しようとも、人間の悩みの根本はそう変わらないもので、それゆえ森田療法のような精神療法が現代でも有用なのだと思います。ただ、森田正馬の設計した治療法をそのまま現代に持ってくるには難しい面があり、それぞれの治療者が上手に適応させているのが現状なのですが、変わらないもの、変えないでいいもの、変えるべきものをはっきりさせることは今後の森田療法、さらには精神科治療において重要なことと考えています。

 

■ 変わらないものは何かを考え続けること、問い続けることは科学偏重とも言えるこの時代こそ大事なことかもしれません。

(文責・矢野)

 

【第15回 関西森田の会・講習会予告】

その基は一つなり。俳諧における基が風雅の誠、私心を捨て大自然と一体となった永遠不変の境地であるならば、森田療法におけるそれは何でしょうか。それは自然観、人間観、思想や宗教こそが基に当たると言えるのではないでしょうか。森田療法が一精神療法を超えた何かである部分はまさにこの背景部分にあり、森田療法の手法や概念の一つひとつを知ったところで、それが西洋的合理性のフィルターを通った途端に技巧的で硬直的で折れたり割れたりしてしまうものになってしまう。柔軟かつ強靭な本物の森田療法に至る道は森田療法の生まれた土壌を知ることにあると私は考えています。

次回以降の講習会では森田療法の思想的背景を深く理解する試みをしていこうと思います。

(文責・矢野)

 

 

 

 

 

 では、森田療法の思想的背景を深く理解する試みとはいったいどういう試みでしょうか。

 森田正馬の言うように精神と身体が同一物の裏表と見るならば、感じから出発する「体験・体得」と、森田正馬が言語化した膨大な文章もしくはそれ以降の森田療法家の言葉を「学習」していくことが、相互に作用するような活動ではないでしょうか。

 というわけで、

 

関西森田の会、本格始動

 

【活動】

① 体験会を行います。古民家において、体得をテーマとした活動を行います。

② 振り返りや生活の変化など様々な議論をしていきます。(今までの形式を受け継ぐ形となります)

【学習】

③ この間やってきたことを体系的に学習するために最も適切と思われる本を見つけたので、これを使って学習をしていきたいと思います。読書会形式になると思います。

 『森田療法 その本質と臨床の知』 藤田千尋

【システム】

④ ホームページがもうすぐできます。情報発信や意見交換などいろいろやれたらいいなと考えています。

 

 

☆第1回森田療法体験会

日時:平成28年7月17日(日)

テーマ:「古民家で衣食住を工夫して過ごす」

☆当日はそれなりに動きやすい恰好で来てください

場所:大阪府南河内郡河南町にある古民家

集合場所:① 12:30 ナカノ*花クリニック(車でここから現地に向かいます)

② 13:00 弘川寺駐車場(直接来られる方はこちら)

終了時間:① 晩ごはん終わった後

     ② 翌日朝ごはん、もしくは昼ごはん終わった後

☆終了時間は人それぞれ。泊まりも可(ただし寝具は自分で用意すること)

 必要に応じて駅までお送りします。

費用:実費(食事代)

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