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関西森田の会 報告書

Vol.18  2017.5.1

【関西森田の会概要】

 

 

目的

  • 関西圏での森田療法家の育成と親睦

  • 関西圏での森田療法に関する勉強会、セミナー、イベント等の開催及び紹介

  (森田療法の研究と実践ノウハウの共有、高度化)

  • 関西圏での森田療法のコア施設づくり

対象者

 森田療法に興味がある全ての方

運営

  • 年会費:なし

  • 活動費:実費

  • 代表:仲野 實(ナカノ*花クリニック)

  • 事務局:ナカノ*花クリニック(TEL:072-234-0879)矢野

 

 

【第16回 関西森田の会・講習会の報告】

 

■関西森田の会では、第13回以来、もっぱら森田療法の「不易・流行:変わらないことと、その時々の体(てい)」について、議論を重ねています。

 前回(第15回)講演会で、岡本重慶さんから京都の森田療法家・江渕弘明先生の話を聞きました。そこで「遮断」ということが話題に上がってきました。鈴木知準も言い、しかし森田正馬はあまり言わない。でも、絶対臥辱療法は、まったくの遮断そのものではないか。ということで今回のテーマは「遮断」ということになりました。

 

 結論から申し上げます。「遮断」とは、踏切にある遮断機の遮断と同じく、あるもの(電車)を通すがための手段であります。森田療法の場合、あるものとは「生の欲望」であります。生の欲望を通すがための遮断であります。さように遮断は森田療法における「不易」であります。

 

■まず、事務局の矢野さんから資料(『森田療法 その本質と臨床の知』藤田千尋 10章)が配布され、丁寧な説明がありました。ご承知とは思いますが。改めて記載します。

臥辱療法:個室を使用し、部屋は直接光、景色、騒音、話し声など、外部からの刺激をできる限り少なくし、隔離の条件を整える。つまり患者を全く隔離して、面会、談話、読書、喫煙、TV、ラジオ、携帯電話などのすべての気晴らしを禁じ、用便、洗面、食事の他はほとんど臥辱を行わせる。その期間は4日から1週間である。

 

治療的意義:

①社会交流の遮断による隔離的生活

②心身の安静により疲労を調整する

③精神状態の観察を通して鑑別診断に役立つ

④煩悶即解脱の体験

⑤退屈感を引き出す

⑥以上の過程から自発的修練の基礎を作る

 

第1日目は、これから自分が受ける生活に対する期待や不安もあり、緊張もするが、それでも今までの煩雑な刺激を離れ安静な条件下に置かれる。次第に心安くなり、楽に睡眠もとれる。しかし2日目は、自分の一身上のこと、病気の行く末など不安な連想、空想、煩悶が起こる。森田は言う。「もし空想が起これば、決して気を紛らわせたり、忘れよう、破壊しようなどとすることなく、むしろ自ら進んで空想し、苦悶が耐え難くなれば、ちょうど歯痛や腹痛の時のように、歯を食いしばり、掌を握り締め耐え忍び我慢する。決して床を離れ、室外に出るとか、その苦悶を人に訴えてはならない。」そして森田は次の禅語で説明している。「不快の連想に対してこれを破壊しようとする努力は、一波をもって一波を消さんと欲す、千波万波交々起こる。」

第4日目、5日目頃になると、空想よりも退屈感が起こり、早く起きて何かしたくなる。

 

■浜松医科大学で臨床に携わっていた森泉さんから、「そうはいっても、患者さんの状態や状況によって、森田先生の図式道理にはいかないものです。」とか、「7日にこだわらない。これも状況によって変わる」という話があり、岡本重慶さんからは、① 絶対臥辱は森田正馬のオリジナルではなくて、呉秀三の『精神療法』(国会図書館になくて東大図書館にあった)にあるという話。② 江渕弘明先生の「遮断」は、外敵遮断よりは「内的遮断」を強調したこと。すなわち森田で言う内的な「計らい」を断ち切ること、あるいは過去のこと、将来のことからの「遮断」の重要性を強調した。自分と向き合うことの大切さを強調した。〔森田正馬が倉田百三に「外相もし背かざれば内相必ず熟す」といった話から、森田正馬は外相に重点を置いていたのではないかと思われる。これはこの後に触れる「生活」重視とも重なるところではあるが。あるいは森田においては、内も外もない、外界(世界)も自分もない、のではないか。この項仲野〕③ 「隔離」という言葉には、偏見的なニュアンスもあり、それで時代が下がった江渕先生は「遮断」という言葉を使ったのではないか。 等々の話が続いた。

 

■研究会の方の事務局を担当している毅さんからは、「体験会(関西森田の会森田療法体験会)で、一人で黙々と草抜きをしている時に「遮断」が起こった、という話があった。そして「生活」そのものになりきった時「遮断」が起こるのではないかという提起があり、次の文章が提出された。とても重要な文章だと思うのでそのまま記載する。

 

 『精神療法講義』森田正馬 第1章 第4節「身体と精神の関係」より抜粋

 

  そもそも精神とは、我々の生活活動その物であって、この活動を除いてわれわれは認めるべき何物も持たない。われわれが笑い、顔を赤くし、物をいい、手足を動かす。これら活動というものを除いて、われわれは精神というものを知らない。いうところの精神とは、いわゆる霊魂とか何とかいう仮説的なものではない。風の吹き、鉄の錆びるのは、物のひとつの変化現象であって、その何故に起こるかということを考えるとき、ここに力とかエネルギーとかいうものを仮定するけれども、われわれの直接に知るものはただその現象そのものである。われわれが実際に取り扱うものは、力とかエネルギーとかいう物ではなくて、その変化現象そのものを取り扱うのである。空想を取り扱うのではない。精神ということについても同様で、我々が直接に認識し、かつ実際に取り扱うものは、われわれ身体の生活機能の変化現象そのものであって、仮説の霊魂ではない。

  今、線香を振りまわすとき、そこに火の輪ができる。で、運動なき変化なき静的の線香を考えるとき、これが物質であって、その活動的の変化の現象を観ずるとき、これがすなわち精神である。この線香と火の輪とは決して別の物ではない。同一の物の静的観と動的観と、ただその観方の相違に止まるのみである。線香の火の輪は、線香の引き続いて運動する間の過程 process を認識したものである。われわれの精神も生活活動の過程の中に存するのである。

 

■私・仲野が思うに、どうも西洋の人たちは、(森田正馬と違って)真とか善とか美とか(古代ギリシャ)、精神とか身体とか(中世)、力とかエネルギーとか(近代)を考えるのが好きらしい。ニュートンによると力Fは F=am (aは加速度、mは質量)。またアインシュタインによるとエネルギーEは E-=mc  (2) (cは光の速度)で表現される。そして、フロイトに始まる精神分析やその他の治療理論の多くは、明らかにニュートン(彼が『プリンキピア』を著したのは1687年の事)に始まる近代科学=古典力学や熱力学の因果律の域を出ていない。しかし今、時代は量子力学の時代に入っていて、近代科学は古典力学と呼ばれ、過去の又は限定されたものとなっている。プランクが「量子」という単語を初めて口にしたのは1900年12月24日の事であり、ボーアが量子論の基礎を造ったのは1910年代の事であり、森田正馬と時代的には重なるが、その考えは森田正馬には届いていなかった。もし届いていたとすれば、彼はとても喜んだと思う。なぜなら量子論の考えは森田療法の考えと大いに重なるからである。彼が拒んだのは西欧のニュートンに始まる近代科学の考えであり、それは彼が取り組んでいた「現象そのもの」を説明できなかったからである。それで今回、

量子論の話をした。

 

■「私という存在」≒「量子」と考えられないか。「私という存在」は個人 individual すなわちこれ以上分けること divide できないものであり、そして「モノ」ではない。また粒子性(物質の性質)と波動性(状態の性質)とを相補的に持っている。だったら、「私という存在」及び「私という存在」を含む社会や会社や経済や政治や森田療法などを量子論で説明できないだろうか。

 ということで今回のテーマの「遮断」を量子論の世界に探し、「トンネル効果」(1957年に江崎玲於奈はこれを利用して江崎ダイオードの製作に成功しノーベル賞受賞となる)がそれに相当するのではないかと考え、それを話し、その効果は「操作性の向上である」と述べたがうまく伝えることができなかった。

 しかし量子論的な考えは、因果律でがんじがらめになっている近代科学(=古典力学)の彼方に常識外れの物事が存在する自由奔放な世界があることを教えてくれる。あるいはそのことを、釈迦をはじめとした多くの人たち(そこには森田正馬も入るが)は既に知っていたと言ってもいいと思う。近代科学は物体とその運動しか説明できなかった。量子論によってはじめて物事の「状態」が科学的に説明できるようになった。人々が経験的に既に知っていたことを量子論の数理は説明してくれる、そして我々のまだ知らないことをも教えてくれる。(それにしても数理に強い会員が来ないものかなー)

 

■その後、「遮断」を広く捉える方向に話が進み、例えばドライブしている時や何かの作業を一生懸命にしている時、それに注意が集中し、そこに一種の「遮断」が起こることが話題になった。

 森田療法は、絶対臥辱と作業ないし生活活動によって特徴づけられるが、これって「遮断」ではないのか。森田正馬はあえて「遮断」を言わなかったが、作業ないし生活活動を一生懸命することが「遮断」だとすれば、森田療法とは「遮断」を巧みに組み込んだ治療法と言えるのではないか。

 

 そこで結論になる。森田療法とは絶対臥辱や作業及び生活活動によって一種の「遮断」を行い、「生の欲望」に道を開き、「生の欲望」を活性化する治療法である、ということになろうか。これが量子論的だとは誰もが予想だにしなかった結果だが、量子論的である。波動が合ったのである。これは第16回講習会の大きい収穫であった。

(文責・仲野)

 

 

【第17回 関西森田の会・講習会予告】

 去る4月23日に関西森田療法研究会において『森田療法における“体験の直接性”~関西の取り組み』というテーマで講演が行われました。テーマの通り、体験に焦点を当てながら現在取り組んでいる活動や臨床をそれぞれが紹介したのですが、各発表者の持ち時間が少なかったりディスカッションの時間が短くなったりで、私個人としてはもう少し掘り下げたかったところです。研究会では事例を扱うのが基本となるのですが、もう少し多方向から「体験」及び「体得」について考えたい。

 というわけで次回の関西森田の会・講習会では「体験」「体得」をより深く考えていきます。今回も特定の担当はなしですが、研究会の発表者は頑張りましょう。

(文責・矢野)

  

☆第17回 関西森田の会講習会

テーマ:「体得とは何か」

担当:なし、あるいは全員

日時:平成 29年 6月 3日(土)16:00~18:00

場所:岡本記念財団事務局会議室

 

★今回以降の例会(親睦会)は財団会議室ではなく、お店を使うことになります。

 

☆第17回 関西森田の会例会(親睦会)

日時:講習会終了後

場所:お初天神近くのお店

会費:3000円程度?

 

☆毎月体験会やっています!

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