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関西森田の会 報告書

Vol.19  2017.8.17

【関西森田の会概要】

 

 

目的

  • 関西圏での森田療法家の育成と親睦

  • 関西圏での森田療法に関する勉強会、セミナー、イベント等の開催及び紹介

  (森田療法の研究と実践ノウハウの共有、高度化)

  • 関西圏での森田療法のコア施設づくり

対象者

 森田療法に興味がある全ての方

運営

  • 年会費:なし

  • 活動費:実費

  • 代表:仲野 實(ナカノ*花クリニック)

  • 事務局:ナカノ*花クリニック(TEL:072-234-0879)矢野

 

 

【第17回 関西森田の会・講習会の報告】

 

■関西森田の会では第13回以来、もっぱら森田療法の「不易・流行;変わらないことと、その時々の体(てい)」について、議論を重ねています。

 今回の講習会では「体得とは何か」というテーマで議論を行いました。12名が岡本記念財団会議室に集まり午後4時から6時半まで、続いてお初天神近くの居酒屋に場所を移し10時まで、途中村田さんが帰り、代わりに前田さんが来ての交代はありましたが、12名で延々6時間の長きにわたりとても熱心な議論が続きました。これは関西森田の会が始まって以来のことであります。

 そしてこの報告書を書くのにこれほど苦慮したのも、関西森田の会始まって以来のことです。岡本重慶さんも話していたように、テーマになっている「体得」とは、泳ぐとか自転車に乗るとかと同様、話で(または文章で)伝えられるものではないからでしょう。6時間に及ぶ議論の内容とその熱気を、文章で伝えることは不可能なことです。そこに参加して「体得!」してもらうしかないのです。森田正馬がなぜあれほど多くの文章を残さなければならなかったのかがわかる気がします。今回の熱気は次回にも続くと思います。会員の皆様、次回もぜひご参加ください。

 

■6時間に及ぶ議論の中から明確になったことは、森田療法は単なる知識でも、また言葉だけで伝えられる単なる治療法ではないということ。森田療法はまさに剣道や柔道や、前田さんがやっている合気道と同じく、不断の訓練・研修が必要だということ。個々人がそれぞれの日常生活の中で森田正馬を参照しながら体験し、体得し、それを持ち寄って議論する。岡本重慶さんも言うように、「体得」とは「後から分かる知識」であり、その「分かる」とは、

『例えば、雪をいだいたカナディアンロッキーのあの壮大な山並み、例えば、シャガールのあの魅了する赤。それは、説明を聞いて分かるものでもなく、理屈付けられて分かるものでもない。それは直接的な出来事である。それは、現実の見方を一変させることであり、固定観念を覆し、思考方法を変え、その人を揺さぶることである。ポール・オースターは「それは、明晰さである」と言い、さらに「・・・物事をせかさないで、・・・配慮と忍耐力をもって、・・・敬意と寛容が必要だ」とも言う。』 (僭越ながらこの文章は自著『近代を抜ける』よりの引用です)

焦ってはならない。

 

 森田療法にとって「体得」とは、日常生活の中での体験、すなわちいろんな気持ちや症状があっても(気持ちや感情や症状はどうしようもない)日常生活で「なすべきことをなす」体験を重ね、「あるがまま」の生活、自然体の生活を重ねて、その後から分かる知識であり、これこそ森田療法の「不易」である。

 

 森田正馬は、その著『神経症の本態と療法』第2章 本療法の原理 に、『体得とは、自ら実行、体験して、その上で得た自覚であって、理解とは、推理によってこうあるべき、こうあらねばならないと判断する抽象的な知識である。ところが最も深い理解は、具体的に体験によって会得した後に生じるものであって、たとえば食べてみなければ物の味を知ることができないのと同様である。』と書いている。今回講習会での喧々諤々の議論を経て初めて、森田正馬のこの文章が、私たちの深い理解すなわち「納得」となったというわけであります。

 

■話は森泉さんから始まりました。森田正馬は奥さんを含めた大家族の中、世間を離れた寮的な場で、まずは安静・休息をさす。1人部屋で「絶対臥辱」に入り、「自分はどうかなってしまうのではないか」という不安や症状に直面化させて、しかし何も起こらないという体験をする。すなわち体得する。

 

 ガスの元栓が気になる、または顔が赤くなるのではないかという不安、それを治してから人との話をしたい、コミュニケーションをしたい。これは本末転倒です。コミュニケーションの目的は、人に伝えたいことを伝える。何かしようとすれば、不安が起こるのは当たり前のこと。だから、人に伝えたいことを伝えることが先(目的本位)。不安を持ちながらも伝えたいことを伝える。できた!その体験を重ねて体得する。すなわち、それがあるから生活ができないのではなく、それがあっても(あって当たり前)生活ができる、その体験を重ね体得する。それが森田療法である。

 

■これを受けて、久々に参加した山本さんの話から「あたりまえ」と「あるがまま」の違いについて話が展開する。たとえば、新しく病院ができ、そこにコンピューター・システムを導入するとなれば、システムエンジニアはその現場で寝泊まりし、約1か月の間にシステムを完成させねばならない。その間ソファーで寝るのは「あたりまえ」?それっておかしいですよね。無理がある。あたりまえでないことがあたりまえになっている。

 

 Fさんが言う。仕事をするからにはちゃんと気合を入れてせんといかん、張りつめているのが「あたりまえ」と思っていた。若い時は何とかやりくり出来てきたが、途中からできなくなった。この「さぼり虫」さえ何とかできればと思っているうちに強迫になったが、気になりながら日常生活を続けることが大事だと言われ、それをしている間に治った。しかし疲れると症状が出る。以来、疲れると症状が出るものだと思って生活を続けている。

 

 そこで森泉さん「生活抜きの治療はない。物事は絶えず移り変わってゆく。それに従っている(自然服従)のが「あるがまま」。流れていくという感じが大事。留まるのは駄目。澱むのはよくない。それが「あるがまま」」そしてFさん「でも今の教育がそうなっている。「気合を入れてきっちり」と教えられる。理由もなく「なんとなく」は許されないし、「いいかげん」も許されない。私にとってはこれが「あたりまえ」だった」

 

■仕事の順番を確認し、手順を頭に入れて仕事をするのが「あたりまえ」のFさんが、何回か前の森田療法体験会に初めて参加した時のこと。遅れて自動車で現場に来たFさん。何をしていいのか。誰も指示しない。皆黙々と草抜きをしているので、仕方なく草抜きをする。夕食を作るときになって人数の多さに戸惑う。人数分のロールキャベツを作らねばならない。大きいボールがない。買ってきたカツオのたたきが凍って固まっている。鍋が足らず取り合いになる。しかし、人数分のロールキャベツを作ることだけを考え(目的本位)、後はその場で何とか工夫して(臨機応変)、そのことに没頭したという。手順も順番もない。症状の出る間もない。「はからう」間もなかったと言う。

 

 月1回の田舎の古民家での体験会では何が起こるかわからない。2月の体験会では雪が降り、1cmの厚さの氷が張る寒さ。薪ストーブをガンガン炊き、寝袋を二重にしたり、寝袋に電気毛布を入れたり、Tさんの発想で寝袋に湯たんぽをいくつも入れたりした。8月の体験会では、単車でやってきた桑田さんは雨合羽を買いに入ったコンビニで雨宿りしているときに、土砂降りの雨と満月という不思議な光景を見たという。熱せられた地面に雨が降って湯気が立ち上り、そこに夕日が当たり、とても幻想的な光景だったという。

 

 体験会ではいつも体験が先にあり、それを確認するという形で後から知識がついてくる。あー、これが森田で言う〇〇かと。まさに体得以外の何物でもない。

 

■長い時間の熱い議論の中には、ここに書きたいことがいくつもありますが、全部を書くこともできない。

 面白かったいくつかを記載します。

 

岡本重慶さん:森田療法は症状を治す療法ではない。そうではなくて、「治したい病」を治す療法です。

 三聖病院で感心したのは、院長は患者を治そうとしていない。ただ、お茶を出して「ハー、ホー」と言っているだけ。共感しながら、それができれば最高の治療。聞かない、説教しない、共感だけ充分にしておればいい。「温かい不問」は最高の治療。

 

毅さん:森田正馬は言う。「説明はいらない。理解よりも体験が先。理解できたからとて治らない。体験できた人は治る。森田の言うことが当たるか当たらないか、40日を犠牲にして試してみればいい」

 又曰く「何を考えようが、何を思おうが自由。はからってもいい。はからってはいかんというとそれにとらわれる。はからわざらんとすることが、すなわちはからいである」

 

■続いて場所を移して定例会に入る。

 

 前田さんも加わって、議論はいよいよ熱気を帯びてくる。合気道も森田療法も、相手と気を合わす、気を合わせて一体になるという点では全く同じこと。少しのずれがあっても駄目。それは理屈ではない。只々訓練あるのみ。気が合うかどうかのみが問題であって、勝ち負けは関係ない。ある域に達した人の動きには無駄がない。きわめて合理的である。

 これはポール・オースターの言う「明晰さ」と言ってもいい。

 

 そんな話が10時まで続き、とても楽しかった。

(文責・仲野)

 

 講習会の終わり際に岡本重慶先生がこのような趣旨の発言をされました。「体験がテーマだが、症状の話になってない?森田療法は『治したがり病』を治す治療法です」。言われて気づいたのは今回のテーマを考えるに当たってはいくつかの方向性があるということを伝えていなかったことです。私が事前に考えていたのは、

①そもそも「体験」とは何かという哲学的な検討、

②神経症の治療法としての森田療法における「体験」の考察、

③より幅広い、万人の生き方としての森田(療法)における「体験」の考察、

という3つの方向です(①については私個人の趣味のようなものですが)。岡本先生は②の話の中でも症状に注目しすぎていると指摘したのではないかと。

 私は①について少し話をしてみたいと思います。

 

 『体験』というのは、どうあがいてもその人個人のものです。ある物事Aをどのように体験するかは100人いれば100通りであり、Aの体験がそれぞれに与える影響も当然100通りなわけです。この『100人いれば100通り』というのは、物事Aを体験するときに、体験する『私』というフィルターを通してのみ体験できるからなのですが(当たり前ですね)、この時似た様なフィルターを持つ者がいると似た様な体験の効果になります。具体的に言えば森田療法の絶対臥辱は森田神経質の人とそうでない人で反応が違います。絶対臥辱が鑑別診断(病気の特定)に有効であるというのは、物事Aをある程度固定すると【絶対臥辱】、特定のフィルターを持つ【森田神経質】人は特定の反応を示す【例えば煩悶即解脱など】という、この効果を利用しているわけですね。

 

 この物事Aのことをドイツの哲学者ディルタイは『テキスト』と呼び、日本の哲学者西田幾多郎は『純粋経験』と呼びました。また禅宗は純粋経験そのものを体得する宗教一派と言えると思います。

 

 森田療法においては『神経質の本態と療法』において使われている『純主観』というキーワードが興味深く、「そもそも主観もしくは体得というのは、感覚、気分であれ、反応、行動であれ、その物その事柄自体のことである。批判を離れた直感もしくは自覚そのままのものである。(中略)純主観は、まったく言説を離れている。名目、言語のある時には、すでに客観的な知識となっているのである。私が説明に困難するところもまたここにある。ただ、神経質治療の結果における実際に即してみれば、容易にこれを知ることができるのである。」とあります。

 

 これだけ書いておいてなんですが、正直私は森田先生以上に説明に困難しています。説明するよりも体験会でそれぞれが体得するのが一番手っ取り早いので、面倒くさい話はここまでとします。

(文責・矢野)

 

【第18回 関西森田の会・講習会予告】

 

 体験そのものになることの大切さはもちろんですが、体験そのものに簡単になれるのかと言われれば、そう簡単にいかない訳で。森田療法の治療もその部分が当然焦点になるのですが、この点について森田正馬は「あるがまま」「自然服従」と言っております。この2つの用語は大変取り扱いが難しく、また誤解を招きやすいです。

 次回の関西森田の会では『自然』について掘り下げて考えてみようと思います。自然とは何か。その意味のすべてが時代を超えて通用するのか、あるいは現代においては解釈にひと工夫必要なのか。かなり難解なテーマとなりそうですが、多数の参加お待ちしております。

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☆第18回 関西森田の会講習会

テーマ:「森田と自然」

担当:なし、あるいは全員

日時:平成 29年 9月 30日(土)16:00~18:00

場所:岡本記念財団事務局会議室

 

☆第18回 関西森田の会例会(親睦会)

日時:講習会終了後

場所:お初天神近くのお店

会費:3000円程度?

 

☆毎月体験会やっています!詳しくはホームページまで

ホームページ:kanmorikai.wixsite.com/moritasite

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