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関西森田の会 報告書

 

Vol.20  2017.10.18

【関西森田の会概要】

 

 

目的

  • 関西圏での森田療法家の育成と親睦

  • 関西圏での森田療法に関する勉強会、セミナー、イベント等の開催及び紹介

      (森田療法の研究と実践ノウハウの共有、高度化)

  • 関西圏での森田療法のコア施設づくり

対象者

 森田療法に興味がある全ての方

運営

  • 年会費:なし

  • 活動費:実費

  • 代表:仲野 實(ナカノ・花クリニック)

  • 事務局:ナカノ・花クリニック(TEL:072-234-0879)矢野

 

 

【第18回 関西森田の会・講習会の報告】

 

■ 関西森田の会では、第13回以来ひたすら森田療法の「不易・流行;変わらないこととその時々の体」について議論を重ねています。森田正馬は自分の治療法を「自然療法」と言いましたが、森田療法の中心にある「自然」とは何か、ということで、熱い議論を重ねました。まず「自然」の意味について事務局の矢野さんが説明しました。「おのずからそうなっている状態(老子)」を表す言葉で、岡本重慶さんからは、森田療法での「自然」は「あるがまま」と同じ言葉であると説明されました。

 「シゼン」と読むのか「ジネン」と読むのか、意味は違うのか、外国語では区別されているのか、等々議論されましたが、岡本重慶さんの説明では「区別されてはいません。ラテン語のnaturaも英語・フランス語のnatureも区別されていません」ということです。

 さらに話が弾み、親鸞も自然を言い(自然法爾;はからいなきこと、まかせる)、明恵も自然を言い(阿留辺畿夜宇和(あるべきようは);その時その場において問いかけ、その答えを生きる

姿勢)、老子も言い(無為自然;上述)、ルソーも言っている(自然;習性や理性によって変化する前の私たちの傾向。内なる自然)とのこと。森泉さんからは荘子に始まると言われている「両行」(互いに相反する2つのことは、別々に存在するのではなくもとは一つ)について話され、それが「自然」なのだと。これは今皆でしている、森田療法を不易と流行に分けてもとは1つと言っているこのことであろう。私・仲野は、哲学者・東浩紀の『一般意志 2.0』より、ルソーの言う一般意志・国民の合意形成が可能になる基礎にこの「自然」が必要なのかもしれないと話した。(東は個別意志の総和としての全体意志と区別して、一般意志を可視化するツールとして「情報処理」を挙げている)

 

■ 議論が熱気を帯びたところで、話はその1週間前に行われた「森田療法体験会」に移った。体験会の行われた古民家に最初に着いた毅さんは、一人で何もせず、ただボーっとしていたという。次についた私・仲野らは、生垣の伸びた枝を剪定したり、部屋の掃除をしたり、夕食用の食材の下処理をした。次に来た森泉さんは、通路になっている石畳の草抜きをした。

仲野「何故、森泉さん、草抜きをした?」

森泉「意識していなかった。何かを期待してではなかった。ゴミが落ちていたら拾う、そんな感じだったかな」

岡本「草にも命がある(笑)」(反自然なことをした)

福井「初参加の時は、何したらいいの?段取りはどうなっているの?ってなった。誰も答えてくれない。何も考えずに「自然」に手を付けた。気が付いたら御飯ができていた。でも、勝手に休憩タイムに入っている人がいて、これもびっくり」

塔本「初めて来たら「私何するの?」ときくのも自然なこと。頑張りすぎないこと」

 

■ そこで森泉さんの話。「森田療法は机上の空論ではない。生活し、体験する中でどう考えるかが大事。言葉は必要であって、必要でない。森田療法は本だけでは駄目。議論していても駄目。森田療法をする中で言葉を投げかける。そこで気づきが生まれ、工夫が生まれる。自分の中の自然な声に気づく。(行動は何とかなるが)気分や感情はどうしようもないことに気づく」

岡本重慶さん「自分の中の自然に信頼を持つこと」

 

■ 次いで、西洋と東洋での自然に対する対し方の違いについての話に移る。

ローマの頃から西洋では自然を征服し、自然から離反することによって文化を形成してきた。岡本重慶さんによると、ギリシャには小乗仏教の考えが入っていたようだ。phystai(生成する)から出来た、physisというギリシャ語はまったくの「自然」そのものであった。しかしギリシャの都市国家が崩壊し、ローマという新しい国家ができた時、自然そのままではいけない、何か「法」のようなものが必要ではないかという要請の下に、アリストテレス、プラトンによってidea(イデア;永遠不変の価値・理念)が生まれた。以後この「理念」は西洋の考えの根幹をなしてきた。しかしニーチェ以降、これは間違いではないか、もう一度「自然との活きた自然な関係」を取り戻さなくてはならないのではないかという考えもあったが。

 

そして近代に入り、デカルトに始まる近代的自我が成長し、今やこの近代的自我が作り出した科学技術はこの地球という惑星を制圧しようとしている。ハイデッガー研究の哲学者・木田元は「飛行機をこれ以上速く飛ばしたり、リニア・モーターカーを走らせたり…本当に、速くなり、便利になり、豊かになることは、無条件にいいことなのか?今のアメリカでは肥大化した近代的自我が全てを支配し、他者の現れる余地がない。僕には、人類が自滅への道を突っ走っているようにしか思えません」と言う。

 

■ しかし東洋の、ないしは日本の中にはそうした考えはありません。評論家・小林秀雄が言ったように、「日本には“美しい花”はありますが、花の“美しさ”(イデア)はありません」。明治になって西洋文明が入ってきた時、夏目漱石や森田正馬はそれに反対しました。ニーチェの「南風よ起れ、北風よ来い、暴風よ渦巻け、我は敢然として其中を歩まん」ということばに対し、森田正馬は「南風は涼し、北風は寒し、暴風は恐ろし、我は只そんな事いっているひまなし」と皮肉を言う。自然の中で自然に生きている森田正馬にとって自然を挑発するようなことを言う必要がなかったのだ。

 

 ベケットは『ゴドーを待ちながら』という演劇で1969年にノーベル賞を受賞した。二人の男の話。

「首を吊ってみようか」

「ピンとするにゃいいかもしれん」

「お前、まだピンとするのかい」

「それだけじゃないけどな」

「すぐ吊ろうじゃないか、ひとつ」

「この枝にかい、少々心細いね」

「とにかくやってみるさ」

「やってごらん」

「俺は、あとからでいい」

「そりゃだめだよ、お前が先だ」

「なぜ」

「お前はわしより軽いだろ」

「だからさ」

「わからんな」

「よし、説明してやろう。俺軽い、枝、折れない、お前重い、枝、折れる、お前一人ぼっち、ところがだ…」

「そいつは、考えなかった」

「大は小を兼ねる」

「じゃ、どうしよう」

「どうもしないことにするさ、その方が確かだ」

「彼がなんていうか、聞いてからにするか」

「えっ、誰に」

「ゴドーさ」

「ああ、そうか」

 

 これは西洋の、行動・アクションに対する「反行動」だからインパクトがあった。日本でこの劇をやれば「反行動」ではなく、ただ何もしないだけの「非行動」になり、ノーベル賞受賞ほどのインパクトは発生しない。現代日本は、外来の思想を先端的に取り入れる部分と、昔からの思考の気分の中に引っ込んでいる部分とが二重になっている。言い換えれば、日本人の生活そのものが超近代と前近代のハイブリッドになっているのである。(先に述べた「両行」と紙一重)

 

■ ではどうすればいいのか?「自然」のままでいいのか?アリストテレス、プラトンがやったように、新しいイデアを造るべきか?政治学者、丸山真男が言うように、一旦は「近代的自我」の構築が必要なのか?

 森田正馬はそうしなかった。柔道の嘉納治五郎もそうはしなかった。それまでの、自然の中で自然に生ませてきていたことを、集大成し、世界に発信しただけであった。私たちはそれを引継ぎ、自然の中で自然に従って(自然服従)工夫を重ねていけばいい。竹内敏晴は、木田元との対談『待つしかない、か。』の中で、「待つ」とは何もせず座っていることではなくて、仕掛けよう、支配しようとしないで(森田の言う、はからいをせず)生起してくるもの(他者)に向かって身を謙虚に保ち続けること、と言う。

 

■ 先に「自然」とは、「おのずからそうなっている状態」をいうと書いたが、森田正馬は共に生活する中でそうなった状態の瞬間を捉えて「そこだ!」と言っていたのかも。そうなっていない時は、「この、お使い根性めが!」と言っていたのかも。

 また、別の話。精神科医・近藤章久が仏教学者・鈴木大拙と対談した時、

近藤が「このままでいいんですか?」と言ったら大拙「そのままでいいですよ」と言い、

「本当にこのままでいいんですか」と言ったら大拙「ちょっと違うかな」と言った。

 多分森田正馬も「あるがままでいいのですね」と言えば、「そうです。あるがままでいいのです」と言い、「本当にあるがままでいいのですか」と問うと、「ちょっと違いますね」と言ったであろうその微妙な違い、自然なのか不自然なのかの微妙な違いは、自然に生活している者には明確に分かることなのでしょう。私たちは、これと同じことをこれと同じやり方で続ければいいのでしょう。

(文責 仲野)

 

 

【第19回 関西森田の会・講習会予告】

 自然に関して、森田は「おのずからそうなっている状態」「あるがまま」という東洋思想の影響を強く受けていますが、他方森田は自身が科学者であるという立場を終始貫きました。そこに発生してくる疑問が事実と自然の関係です。自然という言葉が日常的に様々な使われ方をするのは今回議論した通りでありますが、事実という言葉も森田療法においてはなかなか扱いが難しい言葉です。近代科学の哲学的背景である、デカルトに始まる近代哲学において、自然は「機械論的自然」という形で解釈されます。自然を機械的な法則として理解し、客観的事実として観測し、技術化して利用する考えです。これは森田の考える自然とは違いますが、しかし森田自身は近代に生きた科学者であります。森田は事実という言葉をどう考えたか、また自然との関係について何を言っていたかを検討し、そこにある不易と流行を明らかにしていければと考えています。

 

 

 

☆第19回 関西森田の会講習会

テーマ:「事実と自然」

担当:なし、あるいは全員

日時:平成 29年 12月 2日(土)16:00~18:00

場所:岡本記念財団事務局会議室

 

☆第19回 関西森田の会例会(親睦会)

日時:講習会終了後

場所:お初天神近くのお店

会費:3000円程度?

 

☆毎月体験会やっています!詳しくはホームページまで

ホームページ:kanmorikai.wixsite.com/moritasite

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