top of page

関西森田の会 報告書

 

Vol.22  2018.5.2

【第20回 関西森田の会・講習会の報告】

 

■ 今回の関西森田の会・例会では、昨年熊本で開催された第35回日本森田療法学会において発表した当会の会員3名の発表者に、参加しなかった会員にもその内容を披露して頂き、その内容を共有しようというものでした。岡本重慶さんの「五校出身者たちの、社会教育と森田療法―下村湖人らの『新風土』から、水谷啓二の『生活の発見』へ―」。桑田さんの「公教育の中に息づく森田療法~教育的な支援のこれまでとそしてこれから」。そして、矢野さんの「森田療法体験会の可能性」です。

 

■ 関西森田の会ではこの間、森田療法の「不易・流行」、すなわち変わらないもの(不易)と、その時々に変る「体」(流行)というかたちで話し合ってきました。今回の三人のお話から明確になったことは、「自発」ということ。森泉さんの言葉を借りれば「生活の中で気づいたことに、サーっと手が出る」こと。この自発こそが、森田療法の不易ではないかということです。自発とは、頭で考える間もなく、あるいは、こころで何かを期待する間もなく「サーっと手が出る」こと、唯それだけ。誰かに言われたからではなく、自分で、しなければと思ったわけでもなく、サーっと手が出ること。森田療法は、その人の中に生まれる自発によって、治療が進むのです。治療者は、それ、すなわち自発が生まれる環境を整えるのです。それは、「自発性を育てよう」などといった自発性ではない。その人の事実に沿って、その人の中に自然と生まれる自発です。以下三人の発表の基軸にある、この自発に、耳を傾けて下さい。

 

■ まず、岡本重慶さんの話は、『五校』(現在の熊本大学)に焦点を当てての、とても膨大な体系だったお話でした。それは、明治になって西洋流の学校教育が導入され、それに対峙して、「社会教育」を“主動”した人たちが皆五校出身者であったというお話。そういう流れの中に、森田正馬の森田療法があり、「生活の発見」という言葉を思いついた永杉喜輔(万座温泉の湯船につかってふと浮かんだのが、林吾堂の『The importance of  Living;生活の発見(阪本勝訳)』だったという)であり、昭和32年に『生活の発見』を創刊した水谷啓二であり、皆五校出身の社会教育の主動者であったというお話。

権力による民衆の教育に対峙して、「社会こそ学校であり、社会から学ぶ、民衆による教育運動」を、最初に唱えたのは福沢諭吉だとされているが、彼は、一方で英才教育をも言っている。だので、本当に社会教育を言った人は、明治38年に五校を卒業し、東大法科を経て静岡県清水市の日蓮宗・蓮永寺で日本最初の青年団宿泊研修を行った「青年団の父」、田澤義鋪(よしはる)ではないか、と岡本さんは言う。彼は平和主義者であり、ヒュ-マニストであり、「平凡道を非凡に進め」という教育観を持ち、東京小金井に青年団講習所『浴恩館』を開設し、政治活動も行ったが、日露戦争後の大陸を旅行して、日本人の残忍さを見て、「海外発展? それが何だ。日本は東洋の“ならず者”になってはならない」と言ったので、権力からの弾圧を受け、青年団運動も、それに続く壮年団運動も大政翼賛会的なものに変質させられていった。

田澤義舖の1年後に五校を卒業し、東大の英文科を経て教師になった下村湖人(『次郎物語』の作者として有名)も、社会教育を担った人。「学校教育は、切り花。働く青年たちは、根の付いた雑草。雑草教育こそ真の教育」「教育は、自然と人為の調和をはかるもの」「自律と友愛」「任運騰騰(良寛の言葉);運命に随順し、精一杯に自分を生かす」こうした考えの彼は、田澤の開設した青年団の合宿研修所『浴恩館』の所長となる。周囲からの「もっと厳しく」という声には耳を貸さず、ひたすら青年たちと起居を共にし、「生活の真っただ中こそ教育の場」と言い、早朝黙々と便所掃除をした。これこそが、指導でない「主動」。軍部に乗っ取られた壮年団は、下村によって「煙仲間」という地下組織になってゆく。雑誌『新風土』は、この煙仲間の同人誌的な役割を果たしたが昭和19年に廃刊さされる。この煙仲間とは何なのか? 岡本さんは「純な心を持って、平凡に生きている非凡な人々の友愛の繋がり」と言う。しかし、これが、生活の発見会に繋がり、森田正馬にも繋がるから、ここは、きっちりと押さえておかねばならない運動である。この煙仲間運動に流れているのが「自発」である。煙と聞いて、「煙草(たばこ)仲間」じゃあるまいし、さては「風になびく富士の煙の空に消えて 行くえも知らぬわが思いかな (西行)」の煙かとも思ったが、実は、佐賀・鍋島藩の『葉隠』にある「恋死なん 後の煙に それと知れ ついに もらさぬ 中の思いを」という歌からとった煙であると知り、身の引き締まる思いをした。それほどにまで自発とは厳しいもの、である。

そして昭和6年に、またしても五校を卒業し、京大哲学科を出た、永杉喜輔(きすけ)は、浴恩館に研究生として入る。そこで早朝黙々と便所掃除をする下村を見て、感動し、痛撃を食らう。以来下村との関わりを続け、昭和22年に『新風土』誌再刊に関わる。そして、下村が亡くなった後の煙仲間運動を継承する。

さらに、またしても五校出身の水谷啓二は、五校での友人であった永杉喜輔と再会。下村とも出会う。そして昭和32年、水谷と永杉は『生活の発見』誌を創刊する。発刊の趣意文で水谷は「森田正馬博士の教えを継ぎ、下村湖人先生の教えを継ぎ、『新風土』の伝統を守りたい」と書き、永杉は編集後記で「水谷氏を中心とした『啓心会』と、湖人先生を記念する『新風土』会の人が協力してこの雑誌を出すことになった」と書く。

下村湖人は昭和9年6月の『凡人道』に「凡人の道を丹念に修めれば偉人になれる」と書き、同じ昭和9年7月の形外会で、森田正馬は「凡人の修養されて偉くなったのが偉人である」と言い、高良武久は「平凡の中の非凡」と書く。このように、下村、森田、高良らが深い所で繋がっていることがよくわかる。

それにしても、田澤義鋪、下村湖人、永杉喜輔、そして、森田正馬、水谷啓二と、この五人が奇しくも皆五校出身者であるという不思議さ。これは熊本の不思議さにもつながります。なぜ熊本が反権力的であり、在野であったのか。一説によると明治維新の時、薩長土肥に権力中枢を押さえられ、遅れた熊本にはすでに空席がなかったという話。そして明治10年の西南戦争の時、西郷軍と戦うために、官軍によって熊本城が焼き払われ、城下町も火をつけられて、一面の焼け野原になってしまったこと。そして、西南戦争の戦場は田原坂で有名なように、熊本であったことなどが影響したのではないか。九州大学の誘致にも福岡に負け、熊本人のプライドは甚だしく傷つけられたの絵はないかという説。

 

■ 次いで、桑田さんの話は、森田的な“暮らし方”“生き方”は、縄文の古来から、日本人の中に脈打つものである。空海の教え;「この世のあらゆるものに価値を見出し(包摂)、人間の持つ欲望を排除せず、欲望が本来的に持つエネルギーを生かし、人としての活動に向ける」(『綜芸種智院における教育理念』829年~)にも森田的な考えがあり、森田正馬の教育観;「身心の自然発動を盛んにし・・・その人の病的傾向を(否定することなく)利用して・・・本然の能力を発揮させる」(1919年~)もその脈絡の中で考えるのが自然であろう。森田療法は森田正馬が作ったのではない。縄文の昔から日本人(に限ることではないと考えるが)の中にあった“暮らし方”“生き方”を、森田正馬が明確にしただけである。森田正馬は、森田療法を“発明”したのではない。“発見”したのである。先日、関西森田療法研究会に講師として来られた北西先生は、桑田さんの「縄文森田」という言葉にとても興奮しながら帰って行かれた。

■ そして、1998年から学校教育の中に入ってきた「自立活動」も、その連続と考えていいだろう。それまでの「訓練教育・治療教育」に対する反省から生まれた自立活動、すなわち「得意なことを伸ばす活動をする中で、主体的に自己の力を可能な限り発揮し、より良く生きていこうとする」も、縄文の古来から日本人の中に流れる森田的な“暮らし方”“生き方”の連続であろう。

■ 桑田さんは、森田療法を教育の場に「適用」するというのではなく、(ここは厳密にしておかなければならないことだが)学校と言う場に本来からあった森田的な暮らし方や活動を再認識し、これをさらに深めることが必要だと考え、次のような実践を重ねてきました。学習面や行動面で困難を示す発達障害などの子供たちが、週に何時間、教室を移動して障害の状態に応じて個別に指導を受ける『通級指導教室・そだちとこころの教室』や、言語障害や難聴などを対象にした『きこえとことばの教室』の実践であります。現在の湊川多聞小学校に通級指導教室が開設されたのが1966年の事だから、実に半世紀近い実践を踏まえた話です。

■ 桑田さんは、学校に登校し、学習の用意をし、一定時間読書をし、休み時間には外に出、もくもくと清掃をし、給食当番をし、飼育や栽培などの仕事をするすべての子供たちに、森田的な学校生活すなわち“からだ”と“作業”を応援する。桑田さんは、それを「一次的支援」と呼び、

①身の回りのものをしっかり見聞きする、

②気分にかかわらず、何かを始めてみる、手を付ける、

③思いついたら(価値判断を入れず)すっと行動に移す、

④やり始めたことに続けて取り組む、

⑤うまくいかなければ、他のことに切り替えてみる、

これらは教育の土台であり、教師だけでなく保護者や地域も含めて支援していくことである、と言う。

■ 学習意欲の低下や、登校しぶりや、友達とのトラブルなどの困難を持った一部の子供に対しては、声掛けをし、より森田的な行動に導いてあげること。桑田さんは、これを「二次的支援」と言って、問題化への予防的配慮(中身は上に書いた①~⑤)をより重点的に行う、と言う。

■ 不登校や、いじめや、LD等の問題を抱えた特定の子供たちに対しては、その問題状況へのチームによる計画的な個別の支援(これを「三次的支援」という)が必要となる。あらぬ方向に力を費やしていることを調整する方向性で、

①「・・・をしないといけない」から離れ、「休むこと」。これは、森田の「臥褥」か。

②「遊ぶこと」も含めた、自主的な行動を応援する。

③どんな過ごし方であれ、日々の暮らしを繰り返す。もって、子ども自身が得意な行動のスタイルを見つける。そして、

④他者貢献につながる活動、例えばお母さんへのプレゼントを作ってみるとか、が出てくる。

■ また、保護者に対しては、

①「問題を取り払いたい。弱みを改善したい」という“とらわれ”を取り、不安を「不安のままでいい、あれこれと“やりくり”しない」。

②それがあるからこそ、「今が学びのチャンス」。

③そこから子供も親も「本来の願い」を知っていける、

そうした事を強調してゆく。

■ さらに、教師に対しては、

①これまでの治療とか、訓練とか、矯正とか、指導するとかでなく、子どもに同行する「同行者」になること。

②子どもの邪魔をしない。むしろ「何もしない」「放っておく」こと。

③子どもが今、したいことに“からだ”を投じさせること。「好きに遊んだらいい」。

④時間をかけて、暮らしを重ねることを保障する。「今」すべきことをする。そうすると、子ども自身が自分で自分の力に気づき、自らその力を伸ばしてゆく。それに同行する。

⑤同行する中で、自分のテーマを発見し確認できる、

そうした事を強調してゆく。

■ こうした「一次支援・二次支援・三次支援」を通して、それまでの「行きたくない、つらい学校」、「自発的な“からだ”(行動)が抑えられ、子どもたちの“ありのまま”を抑え、鋳型に押し込む学校」が、「森田的な暮らし方を体得できる場」になり、「“あたま でっかち”から、“からだ でっかち”になる場」になると言う。

近年、相談時にすでに二次的、三次的問題にまで発展しているケースが低年齢化しているが、それを相談室やカウンセリングや治療などの特別な場に持って行くのではなく、毎日の学校生活や家庭・地域での暮らしの中でどのように「自立」活動を実現して行くのかが重要である。問題に対処しようとする支援自体が、その問題を大きくしている例も少なくない。問題をなくすことが教育の目標ではなく、いかにそれとともに生きるか。大きな自然の流れに任せておけば、子どもは自分で良くなっていく。「日々の暮らし(体験)の中で、自然と湧いてくる能動性に身を任せる、そのプロセスの中に豊かな学びがある。いろんな支援の方法論が流れる学校教育の中で、「森田」を再認識していくことが重要である」と桑田さんは言う。

 

■ 最後に、矢野さんから「森田療法体験会の可能性」と題して、カラー写真を使っての説明がありました。大阪府南河内郡河南町弘川(西行終焉の地・弘川寺で有名)にある古民家の写真から始まり、石畳の草抜きをしている森泉さん、石垣の草抜きをしている桑田さん、畳の拭き掃除をしている誰か、掃除機をかけている誰か、廊下を拭いている人、薪を切っている人、薪を運んでいる人、野菜を切っている人、できた料理をよそい分けている人、そして、テーブルに並べられた夕食、夕食後は土間の薪ストーブの前での飲み会、炭焼きの魚やおつまみもある。そんな写真を並べながらの話でした。「体験」は、文章でも、写真でも、動画でも、伝えることはできない。体験会に参加して直接体験して頂くしか方法はない。是非とも、皆様の参加を期待します。

 

■ 体験会のテーマは「古民家で衣食住を工夫して過ごす」です。治療者や患者や一般市民の区別なく、森田療法に関心のある人が、皆で広く、深く森田療法を体験するのです。

豊中の黒川先生の「森田は、体得だよ」と言う言葉に、「じゃー、やろうか」「やってみようか」で始まったこの体験会。毎月一回、土曜~日曜と回を重ねて、早くも2年になろうとしている。目的は「森田療法の体験、体得」だけであり、森田の主旨だけが指針で、治療を目的にはしていない。

夏は涼しいが、冬は厚さ1cmの氷が張る寒さである。テレビも新聞もない。あるのは、12時前で止まったままの古時計だけ。夜泊まる人は、寝具を工夫していただかなければならない。誰も指示をしない。テーマにあるように「衣食住を工夫して過ごす」ことだけ。それぞれが、それぞれに気付いたことに手を出す。唯それだけ。

■ 鳥が鳴き、緑がいっぱいで、自然は豊かだが、バスが1時間に1本あるかなしかの不便な所。こうした、逃げ出しづらい環境の中で、ただもくもくと、草を抜き、掃除をし、料理を作る。時には、座敷の真ん中で大の字になって寝ている人(自発的な絶対臥褥か?)もいる。早朝に森の中へ一人で散歩に出かける人もいる。上にも書いたが、桑田さんは「自然と湧いてくる能動性に身を任せる、そのプロセスの中に学びがある」と言う。あるいは、森泉さんは「生活の中で、気付いたことに、サーっと手が出る」「頭で考える間もなく、こころで何かを期待する間もなく、サーっと手が出る」「誰かに言われたからでもなく、自分でしなければと思ったわけでもなく、サーっと手が出る」と言う。これすなわち、「自発」。体験会には、それがある。

■ 入院森田と、外来森田、そして新たに、もう一つ「体験会森田」が登場した。体験会森田は、治療を目的としないにも関わらず(あるいは、それ故に)、充分に治療的である。特に外来森田と組み合わすと、とても治療的である。外来だけでいくら言葉を尽くし日記指導をしても、体得に至ることは極めてむつかしい。では体得は、入院でなければならないのか。そうではない。週末(土曜~日曜)の、体験会での森田的作業だけでも体得は可能である。そこには、皆と一緒という「集団」があり、逃げ出しづらいという「遮断」があり、・・・条件は充分である。

■ 以上、今回、第21回関西森田の会の、不易は、この「自発」です。岡本重慶さんの、五校や煙仲間の話、桑田省吾さんの、通級指導教室の話、そして、矢野拓哉さんの、体験会の話。皆、自然と湧いてくる「自発」についての話であった。そして、「自発」が自然と湧き出る環境を整えるのが、森田療法である。

(文責 仲野)

 

 

【第21回 関西森田の会・講習会予告】

 

 先の文章にもあった、森田的な生き方は縄文から存在するというのは、もしかしたら読み手にとっては「飛躍が過ぎる」という印象を与えているかもしれませんが、ライフスタイルならいざ知らず、生きる上での心構えなどはそう変わらないのかもしれません。そう考えると「縄文森田」という単語は奇抜に見えて、むしろあまりに当たり前すぎて単語化されていないくらいのものかもしれません。

私の祖母は森田療法の本をサラッと読んで、「あたりまえのことばかりだ」と言いました。中学・高校時代の校長先生の口癖は「あたりまえのことをあたりまえにやる」でした。この言葉は縄文時代に限らず昔の人の方が、現代人よりもしっくりくるような気がします。現代は情報過多な時代ですが、今生きている我々は縄文時代より進んだ生き方をしているのでしょうか?あるいは過去の人々からすれば「あたりまえのことができていない」現代人だったりするのでしょうか?今回の講習会にそのヒントがあるかもしれません。

(文責 矢野)

 

 

☆第21回 関西森田の会講習会

テーマ:「縄文人と森田」

担当:桑田省吾

日時:平成 30年 6月 16日(土)16:00~18:00

場所:岡本記念財団事務局会議室

 

☆第21回 関西森田の会例会(親睦会)

日時:講習会終了後

場所:お初天神近くのお店

会費:3000円程度?

 

☆毎月体験会やっています!詳しくはホームページまで

ホームページ:kanmorikai.wixsite.com/moritasite

bottom of page